あそぶからダメはダメ

先生に新聞紙と輪ゴムは遊ぶなら貸さない、ダメと言われたカメちゃんが、うつ病の初期症状のような状態で学校を休んだ話。

あれこれ読み考えて私が導き出した考えは、遊びを軽視したことが悪かったということ。

元京大教官の瀧本哲史さんは、以下のように説明します。

”レンガを積み上げている光景を思い浮かべてください。あらかじめ、「みんなで暮らす家をつくろう」と説明があれば、ある程度のやる気が出ますが、なんのためにレンガを積み上げているのか誰も教えてくれなかったとしたら、それはかなりつらい作業になる。勉強も同じです。子どもは勉強という、「やる意味がわからないもの」をやらされることが、嫌いなのです

この文を読んで、たおの心情を以下のように推測しました。

勉強をやる意味が理解できないカメちゃんにとって、授業は楽しくない、けれども我慢してやっている。休み時間に遊ぶことが楽しみで、授業時間が終わるのを耐えて待っている。

休み時間になって、よし遊ぶぞ!今日は工作がしたい、新聞紙と輪ゴムで作りたいものがある、と思い先生にお願いしたら断られた。休み時間があるから授業を我慢していたのに、休み時間に好きなことができないなら、授業なんて苦痛でしかない。

子どもが学校に行くモチベーションは休み時間と給食、少なくともうちの子2人には。その時間を子どもが楽しめないのであれば、学校に行きたくないということになってしまうんだ。

小学校教員であり、編集人、フリースクールの理事でもある岡崎勝さん以下のように講演されています。

文科省、教委は

“主体的で対話的な深い学び” と新しい学習指導要綱で示しています。

「主体的な深い学び」は、考える自由度がないと実現不可能です。その考えるという事には、子どもの突拍子もない考え、アイデアも含まれないといけない。指示なしで過ごす時間、自分で考える時間を教師が作り出すしかない。

この講演を聞き、カメちゃんのエピソードを振り返ってみると、学校が掲げる主体的な深い学びというスローガンと、実際の先生の行動が矛盾していると感じます。

自分で考え、休み時間は新聞紙と輪ゴムで何かを作りたいと思った。けれどもその主体的なアイデアは先生に否定されて終わった。

学校が本気で児童に主体的で深い学びを実践させたいと思うのであれば、教師は日々の学校生活のなかで自分自身がそのような行動をし、児童を導く必要があると考えます。

カメちゃんは休み時間を自由に過ごしたかった。それが出来なくてストレスを感じた。授業はもう頑張る気力がないという状態だったんだ、と私なりの結論を出しました。すっきりした。

知人の心理療法士の方にこの話をしたら、とても共感できる話をしてくれました。今度先生たち向けの講座で使おうと思っている資料で、子どもにとっての大切なことを表すピラミッドのような図があって、一番下は命の維持に必要な食べること、寝ることで、その上にくるのが遊びなんだそう。遊びの上に勉強がくる。食べる寝るがきちんとできないと、遊べないし、遊びができないと、勉強もできない、ということらしい。深く同意する。

今の世の中、子どもにとっての遊びを軽視しすぎている。先生たちには子どもの生きがいである休憩時間をもっと大切にしてもらいたい。もし休憩時間を短縮したりする必要がある際は、半沢直樹ばりに土下座をして子どもに謝罪をしてほしいくらい。笑