人を嫌だと思う気持ち、とても嫌な思いをした出来事を思い出してネガティブな感情をまとうことは、とてもエネルギーを使う。有限であろうエネルギーは、ネガティブな方向には使いたくないなぁ、と思っている。
つい先日、本当にびっくり、ショックな出来事があって。小学生の子に、暴言を吐かれた。小学生や中学生がお友達やクラスメイトに、暴言を吐くのを聞くだけで、とっても嫌な気持ちになるけれど、自分に対して吐かれるというのは、かなりの衝撃だった。
子供が、自分の親に対して暴言を吐くのはよくある。親は何を言っても自分のことを許すし、愛してくれる、という本能があるからかな。我が家では、私が言葉に関してかなり厳しいから、私の前であからさまに暴言を吐くことは無いけれど。
でも、乱暴な子であっても、相当興奮するような状況でないかぎり自分の親以外に暴言は吐かない。そうした時にどういうトラブルに見舞われるかが本能的にわかるからだろうか。
私に対して吐かれた暴言、その言葉自体が持つ響きや、その言葉が発せられた時の大きくて強い語調、1度じゃなくて2度繰り返されたこと、など、直接的なショックも大きい。けれども、何よりも私が何日もその嫌な気持ちをまとい続けてるのは、知らない子ではないその子の状態を想像してのモヤモヤである気がする。
とても礼儀正しく、道徳的で、真っ当に生きているご両親に育てられているその子。真っ当すぎる、正しすぎることが、ちょっと息苦しく感じることがあるのかな、と思うくらいちゃんとしている親。そこがとてもひっかかる。子供にとっては息苦しいかもな。
親の前では決して吐かない暴言。それを、知り合いのおばさんに向かって吐く。そこが解せない。全くの他人に対して吐くのではなく、自分の親とつながっているおばさんに対して吐くこと。だって、このおばさん、親に暴言吐かれたことを伝えるかもしれないのに。そこまでの想像ができない、それだけかもしれないし、何も考えず反射的に発してしまったのかもしれない。
けれども、その子が私に対して吐いた暴言を聞いていたカメちゃんは、「あんな言葉を使うのって、聞いてて恥ずかしい」と言った。私もそう思うんだよ。で、そんな暴言を吐いたらどんなに自分の価値を下げてしまうのか、が想像できてないことが、ちょっと怖いし、悲しいし、切ない。
あんな暴言、2秒くらいのうちに起こった事実が、こんなにも大きな存在となっていること。本当に言葉、は重要、大切。どんなに心の中で罵詈雑言を吐こうが、口に出す言葉には気を付けた方がいい。言葉は本当に人の価値を下げるから。たとえ子供であっても。それを深く体感しているこの数日間。