学校は”いじめ”の存在を認めたくない。そりゃそうだろう。気持ちはわかるけど、だからいじめが無くなるどころか増える一方なんだ。被害者に寄り添ってくれそうなスクールカウンセラーでさえ、ハスちゃんのこの件はいじめとは呼ばないと言っていた。
尾木ママの著書「脱いじめ」論に、いじめの定義について以下のように書かれている。
85年文部省が発表した”いじめの定義”には「学校として事実を認定しているもの」という文言があった。いじめかどうかを判断するのが学校であった。
94年にこの文言が定義から外されて、「本人の訴えがあればいじめと確認する」に変更された。ただし、「自分より弱いものにたいして」や「相手が深刻な苦痛を感じているもの」はそのまま残された。この定義はまだいじめっ子の側に立った定義であった。
2007年、いじめの定義の主語がいじめられている子になった。「当該児童生徒が、一定の人間関係のあるものから、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」と改められた。
いじめられた被害者が辛いと思ったら「いじめ」と認めるということになったんです。そして文科省は 「いじめられた児童生徒の立場に立って」対応することと書いている。この文には注釈があり、いじめられたとする児童生徒の気持ちを 重視することである。 とさ。
スクールカウンセラーの発言からも分かるけど、学校がこの件をいじめと認識しようとしていないことは明白。ハスちゃんが通う学校は今年度新規開校した新しい学校。でも、いじめの対応は、85年度の定義の感覚のままのようです。全くいじめられた児童生徒の立場に立っていないと感じています。
世の中でいじめられて苦しみ、先生に訴えても、君にも悪いところがあった、それはいじめじゃない、と言われたとしたら、この定義を突き付けてほしい。