作文

学校って作文を書かせるのが好きだなぁ。今通っている超小規模校では、毎学期のはじめと終わりに反省と目標を作文して、始業式、終業式にみんなの前で全員が読み上げるという儀式?がある。こういうところは超小規模校の面倒くさいところだと思う。

小学生に作文を書かせること自体、私は否定的なんだけれども、3か月に一回目標を書かせるのには辟易する。どう考えても毎回同じ。毎年同じ目標。先生たちも同じ内容の目標を聞いて、良い目標です、頑張りましょう!って毎回言うのかな。思考停止してるよね。。。

文字を書くことが得意ではない、好きではないうちのカメちゃん、終業式で読む作文を書く時期がやってきて、「作文いやだ、学校休む」と。今無理やり彼に作文をかかせることは、文書を書くことを嫌いにするだけだと思う。工藤勇一先生も、小学生の時は文字を書くのが苦手だった。ノートをとれなかった。でも昔の先生は何も言わずに放っておいてくれた。あの時ノートを書くことを強要されていたら僕は落ちこぼれて教員にはなっていなかっただろう」と仰っていた。あの公立中学校で革命を起こした工藤先生もそうだったんだ。。。

カメちゃんの字を書く能力がまだ育っていないのかもしれない、もしくは文字を書くことは大人になっても育たない、ディスグラフィアかもしれない、どっちかまだわからない。だから今私にできるのは、彼が嫌がることを大人に無理強いされない環境を整えること。

作文、日記、長文を書くことを強要しないでくださいと、今年度のはじめに担任の先生に連絡帳でお願いしてからも色々あり、何度作文がいや、日記がいや、とカメちゃんは学校を休んだだろう。その都度連絡帳にカメちゃんに長文を書かせないでください、とお願いしてきた。

今までの担任の先生は、年度初めに連絡帳でお願いしただけで、すんなりこちらの要望を理解してくださったけれども、今年の担任の先生は「カメちゃんに日記を書きたくない理由を聞きます」とか言うタイプの先生で、手ごわい。

おそらく、作文や日記を書くことが子どもにとって良いことだと思っていて、その理想を子どもに押し付けるタイプの先生。いくら正しいことも、受け取る相手の状態、気持ち次第では、大きなお世話、煩い先生、となる。

昨日はカメちゃん、学校を休んで、最近買い始めたコロコロについていたハガキを一生懸命書いていた。住所、名前をほぼ全部ひらがなで書き、切手を貼って、うきうきポストへ投函。私が藍染工房に行く日だったから、必要な荷物をコロコロの付録のバッグに入れて、うれしそうに持ち歩いている様子。初めてぼく自分のバッグを自分で手に入れたんだよー好きなキャラクターのバッグだったんだ、と誇らしそうな様子。私はそれを見て、ほっこり、幸せだなぁ。と感じたんだー

作文なんて、かかなくていいよ

イエナプラン教育

ハスちゃんの「楽しくないのに笑うのは苦しいよ」という発言を受け、このままではいけない、と感じて、また色々とリサーチした。

広島県の福山市に公立のイエナプラン教育校が 22年度開校予定で、現在は移行期間であるということを知った。移行期間であっても、普通の公立小学校よりはずいぶんマシなのでは?と思って、ちょうど1週間後に開催予定だったオープンスクールに参加することにした。公立小学校だから、学区内に住んでいたら必ず通える学校。賃貸物件が少ない地域で、借りられる部屋が1つしかなかったから、見学に行く前に入居申し込みもして準備万端。もう年末には奄美を離れて福山市に引っ越すんだという気合いで福山市へ。

公立小学校がイエナプラン教育に取り組もうとしている、全国発の試みで、もうそれだけで素晴らしい、うまくいっていないとしても、その試みの一部でいたい、保護者としてうまくいくように協力したい、とも思った。

オープンスクールで授業参観してみて、一体何が行われているのかわからないカオスのような状況ではあったけど、活気はあった。子どもたちよりも指導者である先生、大人たちがイエナプラン教育を理解して、実践する必要がある、そのための移行期なんだとも感じた。カオスではあるけど、今までとは違うことをしようとしている、それだけで眩しかった。高学年の教室は、将来なりたいものというテーマで自由に活動をしていたけど、あまり活気を感じなかった。急に自由を与えられてもどうしたらよいかわからない。。。ような感じ。一人、うどん屋になりたいとうどんを手打ちで作っていた子がいて、それはいいなぁ。と思った。高学年だと、自分を持っている子、自分で考え行動できる子じゃないと急に新しいスタイルを受け入れることは難しそうだなと感じました。

課題や疑問点はあるけれども、でもいい、素晴らしいと感じた。ただ、この小学校がある地域が造船の町で、造船に伴い発せられる匂い、おそらく油の匂い?がとても臭くて、娘も頭が痛くなりそう。。。と。入居申し込みをしていた物件も外から見てみて、奄美で今住んでいる家と比べて、住みたくない。。。と。学校とは別の理由で引っ越しは無しとなりました。

ただ、奄美から福山市までお金をかけて、見学に来たこと、に関して、ハスちゃんがとっても私に感謝してくれているのがわかった。たくさんお金使ったね、とか、ありがとうとは言われてないけど、言われた感じがした。

お世話になっている元教育大学の先生に、福山市へ行ったあと、ハスちゃんの顔つきが変わったと言われた。イキイキしていると。お母さんが今回大きく行動したことで、何かあってもお母さんは私の見方をしてくれる、と感じたのでは?と言っていただいて、とっても嬉しかった。

楽しくないのに笑うのは苦しいよ

このタイトル、ハスちゃんが1か月ちょっと前に言った言葉。今まで言われた中でもかなりショックを受けた言葉でした。

不登校関連のスペシャリストに相談する中、私はハスちゃんを学校に行かせたいんだ、ということがわかった。学校でハスちゃんが嫌なことを先生にお願いして排除したり、どうにかハスちゃんが学校に行けるように頑張って根回ししていた。けど、子どもに頼まれてもないのに親があれこれ先生に言うのは、有難迷惑ということが多いと言われて、気づいた。

ハスちゃんに、学校の嫌なところを見るのではなく、良いところをみてみよう、と言ってみたり、授業が楽しくないというハスちゃんに対し、ママも授業は楽しいと思ったことはなくて、休み時間や給食の時間が楽しみだったよ、と励ましたり。

大きいのは、私の小学校時代と、今の小学校は自由度なんかが全然違うこと。ハスちゃんにとって、休み時間もそんなに楽しくないみたい。なぜかというと、遊びたい友達がいつも宿題やってきてなくてお昼休みに宿題やらされてて遊べないってのもあるみたい。超小規模校だと、遊びたい友達も少ないんだろうね。。。

この世の終わりのような顔をして学校へ行く娘を見て、ハスちゃん、笑顔、笑っているところに良いことは集まってくるし、笑っていたら脳が錯覚して楽しくなるんだよ、と声掛けをしていた。

とにかく、なんとか学校に行ってほしかったんだね。私。ハスちゃんが不登校になってしまったら、ここ、奄美大島にいる理由がなくなってしまう、大好きな奄美大島にいられなくなってしまう。。。なんて考えてたかも。

お布団に入って、笑ってようね、笑ってたら楽しいことあるよ、なんて話していたら、ハスちゃんが「楽しくないのに笑うのは苦しいよ」と言って、その言葉がガツーンと響いた。脳天を撃ち抜かれたみたいな衝撃だった。

そんなに苦しい思いをさせてたなんて、ごめんね、と、もう学校行きたくなかったら行かなくてもいいからね、と心から言えた。それから2日、3日休んでリフレッシュできたのかな、また学校に行き始めたハスちゃん。私には想像できないほど、学校が楽しくないのは間違いないな。

あそぶからダメはダメ

先生に新聞紙と輪ゴムは遊ぶなら貸さない、ダメと言われたカメちゃんが、うつ病の初期症状のような状態で学校を休んだ話。

あれこれ読み考えて私が導き出した考えは、遊びを軽視したことが悪かったということ。

元京大教官の瀧本哲史さんは、以下のように説明します。

”レンガを積み上げている光景を思い浮かべてください。あらかじめ、「みんなで暮らす家をつくろう」と説明があれば、ある程度のやる気が出ますが、なんのためにレンガを積み上げているのか誰も教えてくれなかったとしたら、それはかなりつらい作業になる。勉強も同じです。子どもは勉強という、「やる意味がわからないもの」をやらされることが、嫌いなのです

この文を読んで、たおの心情を以下のように推測しました。

勉強をやる意味が理解できないカメちゃんにとって、授業は楽しくない、けれども我慢してやっている。休み時間に遊ぶことが楽しみで、授業時間が終わるのを耐えて待っている。

休み時間になって、よし遊ぶぞ!今日は工作がしたい、新聞紙と輪ゴムで作りたいものがある、と思い先生にお願いしたら断られた。休み時間があるから授業を我慢していたのに、休み時間に好きなことができないなら、授業なんて苦痛でしかない。

子どもが学校に行くモチベーションは休み時間と給食、少なくともうちの子2人には。その時間を子どもが楽しめないのであれば、学校に行きたくないということになってしまうんだ。

小学校教員であり、編集人、フリースクールの理事でもある岡崎勝さん以下のように講演されています。

文科省、教委は

“主体的で対話的な深い学び” と新しい学習指導要綱で示しています。

「主体的な深い学び」は、考える自由度がないと実現不可能です。その考えるという事には、子どもの突拍子もない考え、アイデアも含まれないといけない。指示なしで過ごす時間、自分で考える時間を教師が作り出すしかない。

この講演を聞き、カメちゃんのエピソードを振り返ってみると、学校が掲げる主体的な深い学びというスローガンと、実際の先生の行動が矛盾していると感じます。

自分で考え、休み時間は新聞紙と輪ゴムで何かを作りたいと思った。けれどもその主体的なアイデアは先生に否定されて終わった。

学校が本気で児童に主体的で深い学びを実践させたいと思うのであれば、教師は日々の学校生活のなかで自分自身がそのような行動をし、児童を導く必要があると考えます。

カメちゃんは休み時間を自由に過ごしたかった。それが出来なくてストレスを感じた。授業はもう頑張る気力がないという状態だったんだ、と私なりの結論を出しました。すっきりした。

知人の心理療法士の方にこの話をしたら、とても共感できる話をしてくれました。今度先生たち向けの講座で使おうと思っている資料で、子どもにとっての大切なことを表すピラミッドのような図があって、一番下は命の維持に必要な食べること、寝ることで、その上にくるのが遊びなんだそう。遊びの上に勉強がくる。食べる寝るがきちんとできないと、遊べないし、遊びができないと、勉強もできない、ということらしい。深く同意する。

今の世の中、子どもにとっての遊びを軽視しすぎている。先生たちには子どもの生きがいである休憩時間をもっと大切にしてもらいたい。もし休憩時間を短縮したりする必要がある際は、半沢直樹ばりに土下座をして子どもに謝罪をしてほしいくらい。笑

あそぶならダメ

去年までは日本一学校が好きな小学生だと思っていたカメちゃん、今年度は学校あんまり楽しくない、時には行きなくない小学生に大変身!すべては担任の先生ですね。昨年度の担任が最高すぎたのもあるけど、今年度の先生はイマイチなのです。

私が先生と話した印象は、とても頭がよく、理論的な話もできる、できる女タイプ。教育に対して理想も高く掲げているんだろうな、そこから外れることを許さない、自分の理想についてこい!という感じがします。子どもの気持ち、状況などは一切無視だから、カメちゃんは先生嫌いとなってしまっています。中学や高校の進学校が向いてるんじゃないかな、この先生。

さて先日、カメちゃんが「今日嫌だった。休み時間に先生に新聞紙と輪ゴムを貸してくださいって言ったら、”遊ぶならダメです”と言われた」と言いました。工作したかったのに、できなかった、嫌だった、と。

休み時間に言ったんだよね?と確認して、そうだとカメちゃん。なんだかとってもモヤモヤした気分にはなったけど、「なんで貸せないのか、これは〇〇で使うから、とか、もう休み時間が少ないから、とか納得できる理由をちゃんと言ってほしいよねーいやだったねー」と共感して就寝。

翌朝、起こしてもカメちゃんが起きない。体が動かない。熱はないから気持ちの問題か?学校に行きたくないんだな、と感じて、「学校行かなくてもいいから、起きよう」と声掛けしたらやっと動けた。テーブルについても、朝ごはんが食べられない。「学校休んだらいいんだよ、だから朝ごはんは食べよう」と声掛けしたらやっと食べ始めた。

なんだかうつ病の初期症状のような状態のカメちゃんを見て、頭の中???マークいっぱいの私。昨日確かに嫌なことがあったと話してくれたけど、休み時間に新聞紙と輪ゴム貸してくれなかっただけでここまでになる?!と不思議で溜まらなかった。

学校にはカメちゃんが嫌だったと話してくれた話と、今朝の状態をそのまま伝え、お休み。そして頭の中の???を何とかしたい、と私はインターネット、本、など色々と読みまくったのであーる。この続きはあそぶからダメはダメへどうぞ

持久走大会

全国の公立小中学校でお約束の持久走大会。ハスちゃん、短距離走は好きで得意なんだけど、長距離が幼いころから苦手。短距離の走り方で長距離を走るから、とっても苦しそう。去年の持久走大会、走った後気分が悪くなったと学校から連絡があって、迎えに行ったなぁ。長距離の走り方をちゃんと教えてもらってないんだろうなぁと。家で長距離走の息の吸い方を確認。

ハスちゃんは5年生。5回目の持久走シーズン。私が子供の頃はなかったと思うけど、今は持久走の練習と大会への参加の承諾書に親はサインする。そもそも学校が好きではなく、できれば行きたくないハスちゃん。時間割を見て”持久走”の文字を見て、嫌だ、と言っている。

そんなに嫌なことやらなくてもいい、嫌なのに無理強いされたら、もっと嫌になる。一生長距離走が嫌いになる。例えば、大人になって運動不足になって、マラソンしようt、とか思えなくなるのでは。。。それは本末転倒。

去年持久走大会後、気分が悪くなったことがトラウマになっています、そもそも学校が嫌いなので、嫌な持久走はやらせません、と承諾書に書こうか、練習も大会も不参加、としたらいいよ、とハスちゃんに話しました。そしたら意外なことに、ハスちゃんは「いい、参加するにしておいて」と意外なことを言うのです。

ハスちゃんは大人の立場を慮って無理しているのでは?と思い、承諾書には参加に〇をして、但し練習、大会ともにハスちゃんの気持ちを再優先とし、本人が走りたくないと言ったら走らせないで下さいと記載した。

体育で持久走練習の日、「嫌なら走らなくてもいい、承諾書にもちゃんとそのように書いたから先生も理解してくれるから、あとはハスちゃんが自分の気持ちで自分で決めてね」と伝えた。先生もハスちゃんに、走るかどうかを確認してくれたみたいで、ハスちゃんは、走ります!と自分の意志で参加することを決めた。

持久走、やっぱり苦手で好きではないみたいだけど、自分でやると決めたらそんなに嫌ではない様子。嫌いなこと、やりたくないことを、大人に強制的にやらせることが、嫌なんだよね。親も先生も子どもの意志を尊重し、選択権を与えたら、苦手なこともがんばれる、やれるんだな、と実感した。

持久走大会の前日、ハスちゃんは放課後自主的に走る練習をしたらしい。これも今までにはない行動。去年はママも一緒に走るから走ろう!と嫌々走ったっけね。笑

持久走大会当日。雨、曇り空続きの奄美大島、久しぶりの太陽が顔をのぞかせた。持久走大会、応援してくれているみたい。持久走大会、私は苦しそうに走る子ども達をみるのがあまり好きじゃない。今までハスちゃんも毎年死にそうな顔をして走っているのを見ていて、苦しかった。

コースの中間あたりで見ていた私の前を、持久走が得意な男子がすごい勢いで走ってゆく。カメちゃんも速い!真剣な顔で走ってゆく。その後ハスちゃん、なんと”笑顔”で走っている。苦しそうな顔をしている子どもたちの中、唯一、ハスちゃんは笑顔で私に手を振りながら走っていた。感激。折り返してきたとき、もう疲れてるかな?と心配になったけど、スマホを構える私に対して「写真撮って!」と笑顔で言ってきた。うれしくて、びっくりして、感激した。

試走の時のタイムを縮めるという目標をひそかに掲げていたみたいで、そのタイムもクリアしたよ!と満面の笑みで帰宅したハスちゃん。また大切なことを学びました。子どもに選択権を与えること。自分の意志で行動させること。そしたらこんな素敵な結果になりました。ありがとう。

ギリギリ間に合わない

ハスちゃん、朝の支度ができない。学校に行きたくないもんだから、全然身支度ができない。

登校時間の8時15分、5分前くらいにもう私服に着替えて、掃除手伝ってと声をかけると、「学校行く!家の掃除はしない!」と急に着替え始める。

「え?行くの?もう間に合わないじゃん、行くならもっと早く着替えなよ、もう休んだら?」と声をかける私。「行く!」とハスちゃん。

私としたら、行くなら遅刻ギリギリでも間に合うように行ったらいいのに、と思う。あと5分早く動けばそれが可能。要は、私は学校に「ハスちゃん遅刻します」と連絡したくない、するのがめんどうくさいからそう思う。

先日、不登校の権威の先生と話す機会があり、他の親御さんが高校受験の話を相談していた。いついつまでに受験を決めて動かなければ、この子は今年高校に行けなくなる、高校浪人になってします、と心配する親。「不登校、引きこもりのお子さんは、だいたい、ギリギリアウト!というタイミングにならないと結論を出しません。もうアウト!となって結論を出すんです」と先生はおっしゃった。

ハスちゃんも、ギリギリアウト!のタイミングでやっと着替え始める。そういうもんなんだろうね。ギリギリのところでの決断なのか。今日、これに気づけて良かった。もうあと5分早く着替えろ、とかあとちょっと早く動け、とか言うのはやめよう。

褒めること

褒めることは難しい。頑張ったことは褒めたい。けれども、褒め方って難しい。

さつきやま森の学び舎の太郎さんは以下のように書かれている

『評価』や『褒める』こともないということは他者と比べる環境もないということで、『優越感』や『劣等感』も生まれません。そうすると、子ども達は自分で考え、生み出し、満足感を掴み取れるんです。それが、『自己肯定感』の高さも生み出します。」

私はこれ、とても納得。学校の教育に対して疑問に感じることを解決してくれた。

今朝のグッとラックで、小学校の話題。まだ習っていない漢字を作文で使った児童を他の児童の前で褒めた教師。そしてその教師に褒めたことを注意した校長の話。校長は、できない子が劣等感を感じないよう、まだ習っていない事ができる子の家庭は裕福で、塾通いをさせたり、辞書をかってもらえたりする。それができない家庭もある、という主張の様。

褒めた先生は、習っていないことを本で見てそれを書いた生徒のがんばりを褒めた。他の生徒もそれを聞いて、図書室で本を借りるようになった。

うーん。校長先生の主張は全く的外れ。この世は裕福な家庭も、貧しい家庭もある。それが真実。貧しい家庭の子も小学校には無料で通えるんだし、図書室で辞書をかりることができる。それを教えてあげてほしい。勉強することにお金は必要でないことを。自分ができない事をできるお友達をみて、劣等感を感じるのではなく、いい刺激にできるマインドセットを教えてあげてほしい。

そして褒めた先生、みんなの前で褒めるのではなく、その子を個人的に褒めたらいいと思う。そして、褒める必要があるかどうかも疑問。習ってない漢字を使いたい子もいるし、習っても全く漢字を書かない子(ハスちゃん)もいる。習ってる習ってないはただ大人が決めた順序。子どもの好奇心はいろんな方向に向いているし、脳の発達のスピードもそれぞれ。

みんな、それぞれ、ありのままでいい。習ってない漢字を書く子も書かない子も、別にそれでいい。比べる必要は全くない。

”なんかやだ”

ハスちゃんは学校が好きではない。ものすごく嫌なことがあるわけではない。でも”なんかやだ”らしい。

奄美大島に移住して初めに住んだ宇検村で仲良くなったファミリー、旦那さんは小学校の先生、奥さんは保育士で、カメちゃんと同級生の息子さんが発達障害という家族。子育てや学校教育に対する考えが似ていて、本当にたくさんのことを話して、助けてもらった。その奥さんにハスちゃんが学校が”なんかやだ”と言ったことを話したら、めちゃめちゃウケてその思いを本にしたらいい!なんて言う。

子どもの”なんかやだ”がわからない先生が多くて、旦那様が勤める学校にもいいひとなんだけど、ちょっとそういう先生がいてねー、子どもの”ちょっとやだ”を教えてあげたいんだよねーと。

ハスちゃんのなんかやだ。ある先生が、「うわぁーすごいねー」ってほめてくるのが、なんかやだらしい。ハスちゃんの「うわぁーすごいねー」っていう言い方が、幼い赤ちゃんをほめる感じの言い方だったから、大したことをしていないのに褒められてバカにされているような気がするんだろうか。

今学期の始まり、台風9号でいきなり9月1日は休校。2日の午後からになった。教科書はすべて学校に置いて帰る我が家は、2日に私が車で教科書とお道具箱を運搬したけど、ハスちゃんの算数と国語の教科書だけは家に残していた。そしてハスちゃんは3日連続で算数と国語の教科書を忘れた。3日目に先生に怒られたらしい。帰宅してすぐランドセルに国語と算数の教科書を入れていた。

翌日は私のミスで体操服を忘れた。1時間目から体育!走って体操服を届けた。算数国語の教科書のこともあるし、運動会の練習シーズンに体操服を忘れるなんてハスちゃん叱られなかったか心配だった。

帰宅したハスちゃんに、「忘れ物が多いと怒られなかった?」と聞いたら、「大丈夫だった。今日は算数の教科書持ってきてえらい、とほめられたよ」と言うから、笑いながら「へぇ、ほめられたんだぁ」言うと、「あまりうれしくないけどね」とハスちゃん。

褒める、良かれと思って褒めるのだろうけど、むやみやたらに褒めるのは逆効果。褒め方ってとっても難しいと思う。

台風10号

久しぶりにブログを書く。本当に久しぶり。命の危険を感じたからなのか、なんだか圧倒的な自然のパワーを感じ、人間って弱い生き物なのだなぁと感じたからなのか。せっかく生きてるんだから、経験したことを書いておきたいと思った。

史上最大の勢力である台風10号が奄美に直撃すると予測され、台風が最接近するまで数日間の島内の緊張感、そして過ぎ去った後のこの晴天、美しい海を見ていると、「台風きたの夢だった?」という不思議な感覚に陥る。台本がある映画、リアリティーショーに出演したような気分。

奄美に移住して2年半、台風は何度も経験しているけど、今回の緊張感は今までにないもので、集落の長老から「今まで生きてる中で、一番大きい台風がくる」と注意喚起を受けたほど。台風が来るたびに大体停電はするから、停電くらいは想定内。断水も想定内。2年前の台風の時はドコモのアンテナが倒れて数日携帯も使えなくなった。それも想定内。

今回の台風が直撃したら、木造の古い家は全部吹っ飛ばされて全壊するだろうと、島民は怯えました。確かに集落内、半分以上が木造の古い家。2年前の台風よりも大きいのが直撃するから、倒壊間違いなしという予測で、多くの方が公民館やホテルに避難していました。

奄美住民は台風対策には慣れていて、やるべきことはわかっている。瓦屋根はなく、雨戸がついている家が多くて、台風向けの家になっている。対策を講じたらあとは祈るしかない。自然の驚異と美しさをこんなにも強烈に感じられる場所が奄美。今回は、命は守れても家の倒壊をイメージした人は多かったはず。

5日の夜、家で寝ることを選んだけど一応避難準備もした。 ライフジャケットを枕元に置いて寝た。 「こんなのいる?」とカメちゃんに言われたけど、備えよ常に!と唱えながら。最悪を想定して。ハスちゃんカメちゃんと川の字になって寝る毎日。何が起こってもハスちゃんカメちゃんと共にいられるなら幸せだと思いながら寝た。

強い雨は降っているけど、風はそこまで強くない。朝起きたら停電していると思っていたから、扇風機が回っていてまずびっくり。台風の最接近は6日の正午くらいだったから、まだまだこれからだとは思った。ネットでチェックしたら、勢力が弱まり、進路が東にずれて台風の目の直撃は免れたらしいとわかった。

直前に来た台風9号のおかげで、海水温が下がり、10号が発達できなかったらしい。結果、大きな被害を出さない台風だった。

台風で家が倒壊するかもしれない、避難しなければならない、となったら、持っていけるものは限られている。物を持つ、ということも考えさせられる。台風が過ぎ去った後の被害場所を見るときも自然の驚異を感じるし、きらきらの何事もなかったように輝く海と星空を見ても自然への畏怖を感じる。

自然には勝てない。もっと自然を大切にしたい。温暖化で災害が増えていくだろうと予測できても、今までの生活を手放すことができない人間たち。まだ次の台風は来る。それまで、もう少しいろいろ感じよう。