国語のテスト

ハスちゃんが、2学期のテストを持ち帰った。昔からだと思うけど、国語ってとても曖昧な、○×つけるのが難しい教科だと思った。こんな授業してたら、こんなテスト受けさせて成績つけてたら、そりゃ国語嫌いになるわな、と感じた。

お庭にこんな綺麗な花が!今日気づいた

問題
次の分は、物語を読むときに気をつけることについて書いたものです。()に当てはまる言葉を、以下から選んで書きなさい。

物語を読むときは、(登場人物)のだれかと(自分)を重ね合わせたり、書いてあることを(経験)などと結びつけたりする。

花はあるがまで最高にうつくしい

上の()内には学校の正解書きました。娘は、(自分)というところを(友達)を選びました。×だったんですが、娘は「だって私、本当に本読むときこの子○○ちゃんに似てるなぁってよく考えるよ」と言っていて、「なるほど、それでもいいよね、友達もいいじゃんね!正解!」と話しました。

国語の問題を解くとき、正解を書きたかったら、この問題を作った人はどういう答えを望んでいるかを考えて書かないとだめだねと話しました。なかなか大変なのです、国語テスト。

もうすぐクリスマス、奄美は緑豊かです

しかし物語を読むときに、こんな指示されたら一切読む気失せるんですけど。。。ハスちゃんと、物語くらい自由に読ませろ!と大笑いしました。本当は先生にツッコミ入れたかったけど、今のところ笑わせてくれたからいい。
ハスちゃんカメちゃんは本が好きだから、笑っていられるけど、本をもっと読んで欲しいといつも言っている先生を思い出し、なんだか気が重くなったのでした。

鶏の命をいただく

節子小学校跡地で毎週第2土曜日に開催している草バー。12月14日はさとみさん肝入りの特別企画”鶏に感謝を捧げてさばいていただく会”でした。

節子へ向かう道中の絶景

11月の草バーでクリスマスといえばチキンという話から、さとみさんが発案。初め聞いた時は私はあまり気が乗らなかった。今まで目をそらしてきた現実。でも私はベジタリアンではないし、スーパーで鶏肉を購入して食べている。食べているのだから、これは背を向けてはいけないのだと自分に言い聞かせた。

節子小学校跡のロビンソンファームには自然豊かな環境の中暮している鶏たちがいて、必要な時に絞めて頂くことができる。スタッフの男性が、インストラクターとして指導もしてくれる。

生命力あふれるガジマル

私は少し離れた場所から見ることにした。見たくないと言うハスちゃんは、もう一生ないことだと思うからおいで、ともっと遠くから見守らせた。驚いたのはカメちゃんで、この企画の話をした時から「オレが鶏をつかまえたい!」と前のめり。鶏のすぐそば、最前線に最初から最後まで陣取っていた。

まだ生きている鶏を見た時、”この子の命をいただくんだ”とやはり罪悪感のような感情を持った。感謝するしかないと思った。そして参加メンバーみんなで鶏に感謝の黙とうを捧げた。

男性スタッフがここが胸肉、ここがササミと説明してくれる。スーパーで売っているものよりも断然小さい。「スーパーで売られている鶏肉は生後4週間以内の若鶏なんだけど、ホルモン剤やら栄養剤を投与してあんなに大きなお肉が取れる」と教わった。とても恐怖を感じた。

最前線にいる手羽先好きのカメちゃんが「あーここ僕が好きなところ!」と言った。1匹を捌いて、やっと手羽が2本とれる。スーパーに並んでいる手羽先の数を思うと、なんだか胸が痛くなった。

不思議だったけど、鶏を捌き始めてからは罪悪感のような感情は無くなった。感謝しながら丁寧に捌いて頂くことは、スーパーに並んでいる鶏肉を買うことよりも、全然自然に思えた。必要な時に最小限必要な命を感謝しながら頂くことは、当たり前のことだと思った。意外な気持ちで驚いた。

男性スタッフが、「やってみたい人?」と聞くたびに、「はい!」と一番に手を挙げるカメちゃんにも驚いた。なんかすごい子だなぁと。事実を事実と受けとめ、そこにあまり感情を介在させない。頼もしいというか、なんというか。ハスちゃんは、少し遠くから見学して、室内へ入って読書をしていた。

草ラボ棒棒鶏

大人の鶏の肉は、とても硬い。だからスープにしました。茹でたお肉は弾力性がすごく、裂くのにものすごい力がいりました。あぁ、スーパーで売られている鶏たちは不自然極まりない環境で育っているんだなぁと考えた。

草ラボ鶏飯

命をいただいて作ったスープでした鶏飯は、絶品でした。鶏さんありがとう。そして大切なことに気づかせてもらった、素晴らしい企画にも感謝。草ラボありがとう。

「やさしいね」

昨日、ハスちゃんカメちゃんがやさしい子に育っていてうれしいと書いた。子どもが言われて幸せを感じる言葉、心があたたかくなる言葉を、日頃親が子どもに言うことは”私、僕って大切な存在、素晴らしい存在なんだ”という自己肯定感を育てることになると思っている。

先日の学級PTAという先生と保護者の懇談会で、カメちゃんの担任が”家庭での子どもたちの褒め方”について教えて下さいと、保護者が順番に発言する機会があった。保護者は5人。座り順でたまたま私は最後に発言することになったんだけど、他の保護者が全員”褒めていない”と言い放ったのに驚愕した。”注意ばっかりで褒めることはないですね”と仰る。私は子どもたちの心が心配になった。

美しい自然の中ではやさしい気持ちが優勢になる

多くの小学生の親は、子どもは言う事を全然聞かないの。”褒めることがない”と思っている。テストで100点取ったとか、かけっこで1番になったとか、そういう他人と比べて良い結果を出したことは褒めるべき対象であるけれども、子どもが毎朝起きて、ご飯を食べて、歯を磨いて、学校に行く、ということについては、当たり前のことであり、やっても褒める対象にはならない。

大山先生のペアレントプログラムに参加して、他の子と比較しない、ただ子どもがやることを実況中継をするだけでいいと学んだ。なかなか朝ごはんが進まなくても「うん、食べてる食べてる」お着替えが進まないときは「おっ!ボタンを外しました~」みたいな感じで。すべての行為を認めること。これ、余裕がないとできないんだなぁ。親に余裕がないこと、褒めるという行為の持つパワーを認識できていないことが原因かなぁ。

カメちゃん、おこずかいでハスちゃんにイヤリングをプレゼント!

そんなことをずっと考えていたら、ジャストタイミングで植松努さんの為になる記事がFacebookに投稿された。 仏の様な植松さんの中にも、暴力的側面はある。その暴力的な部分を抑制しているのが、植松さんがおじいちゃんからかけけてもらった”努は優しいね”という言葉だそう。

いろんな子がいるけど、どんな子にも優しい面がある。その優しい部分にフォーカスして、やさしいねと声掛けすることで、その優しい面が広がっていくし、暴力的な面が縮小されていくと思う。また良い事を教わった。

今日はハスちゃんカメちゃんに、登校する前に3回もやさしいねと言った。私もやさしい気持ちになる。言い続けよう。

やさしい子

どんぐり式子育てを選択すると家庭内は穏やかでいいことだらけ。おまけに本物の学力がつく最高の子育てなんだけれども、”やさしい子”になるというのがまた嬉しい。

ハスちゃんは、奄美大島に移住して一番最初に住んだ集落では、仲間外れにされて苦しい思いをした。10人ちょっとしかいない子どもの中で、リーダーである中学生が誰かを仲間外れにするタイプの子だった。小学生は何があってもそのリーダーに歯向かうことはしない。言いなり。

ハスちゃんは、そんな絶対的リーダーにも意見した。同級生の男の子Kが仲間外れにされそうになった時、「私はKくんも一緒にみんなで遊びたい!」と言った。そうしたら、「じゃああんたKと遊べば!」とハスちゃんも仲間外れにされてしまった。Kくんは泣きながら家に帰った。ハスちゃんはKくんを心配して泣いていた。

翌日、何事もなかったようにみんな遊んでいる。そして、ハスちゃんが仲間外れにされていた。みんなでハスちゃんを無視している。もちろんKくんも。昨日自分の味方してくれたことなんて覚えてないみたい。「ハスちゃんは、一番強くてやさしい子だよ」と何度も言った記憶がある。辛かったなぁ、あの時は。でも、ハスちゃんのことを誇りに思っている。

カメちゃんの同級生に、とーってものんびりで、何をするにもみんなの何倍も時間がかかるSがいる。「書写が全然終わらないSくんに、みんなが「早くしたら!?」とかいろいろ言うから、僕ね”Sくんはゆっくりていねいにやってるんだよ”」と言ってあげたんだよ」とカメちゃんが言った。私が「ゆっくりていねいがいいもんね」と言うと、「本当はね、Sくんふざけてるというか、真面目にやってないだけなんだけどね」と苦笑しながらカメちゃんが言った。なんてやさしい子なんだ、とこれまた息子を誇りに思った。

我が子のやさしさを誇りに思えるのは、幸せこの上ない。

本を読みましょう

奄美大島では、各学期の初めと終わりに 学級PTAという、先生と親の懇談会がある。 広島ではなかったこの会、鹿児島県の文化なのかな?先生がその学期の学級経営について、子ども達の様子についてを話してくれる会。

“学校が楽しくない病”を発症中のハスちゃんの担任が、1学期と比べて、子ども達がとても意欲的になっています。みんな算数が好きで、わからない問題も投げ出さずに、わかるまで質問をしてくれています。この意欲を消さない様指導をしたいと思いますと言った。 ハスちゃんの学校への意欲は今底辺くらいだから、 ハスちゃん以外の子が意欲的なのかな?と思ったけど、ハスちゃんから聞く話から私が感じている空気感は先生の話と全然違って、違和感。

帰宅後ハスちゃんに確認。クラスのみんなは算数好きなの?の問いに、”えーみんな嫌いだよ。私も好きじゃないし”。だよね。でも、最近みんな頑張ってる?たくさん質問したりしてる?の問いに、”そんなことないよ”。だーよーねー。人間的にはいい先生なんだけれども、なんだか空回りしているというか、ズレを感じる。先生は褒めて伸ばそう作戦で、色々良い事言ったのかもしれないけど、なんだか嘘がバレバレというか、聞いてて寒かった。日頃から悪いことは隠そう隠そうとする先生で、 言葉だけからまわっている。保護者もしれーっと聞いてた。

そして、本をもっとかりて読んで欲しい。ずっと言っているのですが、まだまだ本を読む量が少ないですと先生。読書大好き本の虫のハスちゃん( 放っておくと1日中読書する)を、苦労して読書制限している私はまた違和感。複式3.4年の学級の生徒数は5人。5人しかいないのに、先生はハスちゃん以外の子の話をしていることは間違いない。とっても不思議な体験だった。

読書より外遊びしてほしいんだな

本を読んで欲しいというけれども、本の楽しさを教えていないのが本質的に問題。子どもが幼い時期から親が読み聞かせをしていたら、100%本大好きな子になる。この持論、 私調べだけれども今まで外れたことがない。読み聞かせをするには、落ち着いた時間を確保することが必要だし、音読をすることはパワーも使う。敬遠する親も多い。「読み聞かせ一回もしたことがない」と普通にさらりと言った母親に対して、平静を装うのが大変だった。あなた、なんてことしているんですか!と心の中ではめちゃめちゃ波風が立った。

本の読み聞かせをしないでおいて、小学校に入学したら、教科書の音読や日記を強制されて、 そりゃぁ文字拒絶反応を発症するはずです。そしておまけに本をたくさん読めと言われ続ける。。。本の楽しさを教えてあげて下さい、先生。

どんぐり式子育てをしていたら、学級PTAの先生のお話しも違和感だらけ。誰のこと話してらっしゃいますか?と感じてしまう。でも、それって子育て成功している証拠なんじゃないか?と、ポジティブにとらえることにする。

昨夜カメちゃんが、「ママぼくね夜が楽しみなんだけど、なんでだと思う?」と聞いてきた。「理由はね、ハリーポッター読んでもらえるから」とニコニコ顔で言うカメちゃんが愛おしいこと。今、ハリーポッター秘密の部屋を寝る前に読み聞かせしている。長い!から1章ずつ。1章でも音読すると20分かかる。とっても疲れる。けれども同じ物語を20分間共有することは、なんともピースフルで幸福感溢れる時間なのか。つづきが早く読みたいね、とワクワクドキドキ眠りにつく。読み聞かせはしんどいけれど「今日も夜ハリーポッター楽しみだな」という気持ちが心の片隅にあるということは、1日を意欲的に過ごす糧にもなるんじゃないかな。

私が長い物語を読み聞かせ始めると、ハスちゃんは先が気になり過ぎて、読み聞かせを待てなくて、自分でどんどん読み進めて1日2日で読み終えてしまう。私の読み聞かせスピードが満足できないみたい。それが今の課題だな。

月が沈む

「月って沈むの?!?!」

これ、ハスちゃんでもカメちゃんでもない、40才を過ぎた母、私の発言です。先日、奄美大島南部の某所にて、天の川ハンターの荒木さんナビゲートで星空観望会をしてきました。

私やハスちゃんカメちゃんにとって人生初の星空観望会は、荒木さん曰く「今年最高の星空」だったそうで、おまけに水平線に月が沈むところが見れました。 水面に三日月がくっつく”月のフネ”を見たのは、荒木さんも初めての経験?めったにないことだったようです。

日没後のマジックアワー、もう月もでてきてる

地球が自転しながら太陽の周りを公転していることは、理科で勉強したから知識としては持っていました。けれども、知識があることは理解していることではないと、身をもって体験したのが冒頭の言葉「月って沈むの?!」です。

夕日が沈んだ瞬間

地球は丸いと感じられる水平線に、オレンジの月が少しずつ沈んでいく。沈み切った時、終わった花火をバケツの水につけた時のような”じゅっ!”という音が聞こえたような気がしました。朝日がでて、夕日が沈むのは何度も見たことがあるけど、月が沈むのは見たことが無かった。だから恥ずかしい話、月は暗い間はずーっと出ていると思い込んでいたのです。自分の目で、見る事。体感すること。誰かに教えてもらったり、本で読む何倍もの意味があるんですね。

月は、高いところにあるときほど白く、海に近づくほどオレンジになる。実際に自分の目で見ながら聞いたから感動が伴う。忘れない。

空はうすいむらさき色

夜空を見続けている荒木さんをして、今年最高と言わしめた星空は、文章には表せない素晴らしさ。初めて見た数の星でした。普段見えない星までもが見えるわけで、いつもは分かるオリオン座やカシオペアなどがどこにあるか分からない状態。荒木さん曰く、奄美大島は星が見えすぎてしまうそう。

そらが藍の深い色になってきて

あそこにある星見える?あれはね。。。などと荒木さんが色々と星の説明をしてくれるのだけれども、なかなかついていけない私。とは対照的に、「うん、見える、あれだね」と荒木さんと会話が成立しているハスちゃんカメちゃん。子どもの能力の素晴らしさにも気づかされました。だから、幼いうちに丁寧に生活を楽しむのが大切なんだね。夜空を見上げて星や月を見ることは、特別なことではない、生活の一部なんだ、と思った。明るい町のなかで、メディア漬けにされた目では、美しいものが見えなくなってしまう。

空が黒くなってきた

展望会会場はもちろん街灯はなく、真っ暗。着いた時点では、漆黒の世界で何も見えない。星空を観察していると、少しずつ暗闇に目が慣れるというか、目の本来の能力が戻ってくるというか、漆黒の世界が、薄暗い世界くらいに変わったことに驚いた。どきどき車が横の道路を走りすぎていったけど、車のライトを目に入れないことを荒木さんが教えてくれた。ライトを見てしまうと、星が見えなくなってしまう。現代人は、便利さと引き換えに退化してしまっているなぁ、雄大な自然の前に、昔むかしの人間の叡智さえも感じていた。そんな気持ちになるくらい、とにかくすごいものを見たんだ。

一旦雲に隠れた月が、また出てきて海に沈んでいきました

天気ばかりは人間がコントロールできないもの。いろいろな奇跡の重なりで遭遇できたあの夕日、月のフネと星空。もう二度と同じものは見られない。なんと尊い世界。

発達障害の正体

最近私をザワつかせている”発達障害”。気になることに関するアンサー的なブログに出会った。

https://plaza.rakuten.co.jp/moriheikou/diary/201910250000「発達障害の正体は”発達の障害”ではなく”感覚の障害”です」

発達障害は、感覚の障害です。子どもの発達を支えているのが”感覚”であり、その感覚の働きがゆがんでしまっているから”発達”にもゆがみが生じているとのこと。発達障害という名前がよくないね。まだ感覚障害の方がいい。

「感覚の働き」が支えているのは「発達」だけではありません。生き物たちの「生命活動」の全てを支えています。

でも、そんなにも大事なものなのに、現代人は「感覚の働き」を無視して生活しています。
そして、感覚の働きを狂わせるようなことばかりをしています。それが「心を病む人」や、「発達障害」と言われる子どもの増加ともつながっているのです。


頭(意識+思考)と、感覚と、心と、からだの全てが統合された状態での「リアルな遊び」は、その「感覚の働き」を育てるために非常に重要な働きをしていたのです。

このブログを読んだら色々つながった。発達障害だと診断されたSくんは、遊ぶ時間を削って毎日2時間かけて宿題をしている。宿題を終えたらもう真っ暗。遊ぶ時間はない。人間の発達にとても重要である感覚の働きを鍛えるのが”遊び”だと誰も気づいていないから。。。

テレビやゲームが子どもから外遊びの時間を奪い、遊びが脳の中だけで完結。外の世界とのつながりを支える感覚の働きが育たない。子どもたちは遊びを通して人間力を育むけどその機会を大人が奪っている。

Sくんは、遊ぶ時間を削って英語教室のも通っている。英語はあくまでも”道具”。大人になってからでも学べる。でも、人間力は子ども時代にしか育たないのになぁ。

母国語でちゃんと表現できない人は、外国語でも表現できないのです。母国語で論理的に考えることが出来ない人は、外国語でもちゃんと考えることは出来ないのです。

これ、私もそう思います。外資系有名企業で働いていた時、海外育ちのバリバリバイリンガル女子がいて、英語は堪能だけど中身空っぽだった方に2人も会ったので。

発達障害らしいSくんに必要なのは、英語教室でも、宿題でもどちらでもないんだよなぁ。得に、毎日大切な成長期の2時間を費やして作業でしかない宿題をするということに、早く疑問を感じて欲しい。宿題の内容なんていくらでもアレンジ可なのだから。。。

発達障害は個性

カメちゃんが小学校に入学する頃から私をザワつかせている言葉”発達障害”。最近また、ザワザワしていた。カメちゃんの仲の良いお友達が、発達障害にまちがいないと診断されたと聞いた時、とってもザワザワした。

その友達Sくんは個性的なだけ。マイペースで他の子と一緒に色々やることが得意じゃないだけ。私はそう思った。その子のお母さんが、とてもきっちりした方、生真面目な頑張り屋さん、勉強熱心で、Sくんの為にあちらこちらへ奔走している。Sくんが入学するタイミングで仕事を辞め、きっちりSくんを監視できる体制を整えている。帰宅したら大切な宿題タイム。毎日宿題を終わらすのに2時間かかっているらしい。Sくんのお母さんはとにかく必死。愛する息子の為に全身全霊をかけている、そんな印象。

信頼できる素敵な友人 (妖精さん) で、臨床心理士の資格を持ち、スクールカウンセラーの仕事をしていて、CD作ってるくらいのレベルの音楽活動をされている、それはそれは素敵な女性がいる。その人にSくんの話をしたら「あ、私自分も発達障害だと思う」と言った。衝撃だった。で、その時にハッキリわかった。発達障害って、個性ってことなんだと。

妖精さんは保育園の時、はっと気づいたら皆がもう昼ごはんを食べる準備を整えてテーブルにすわっていて、あれ?なんでみんなは今ごはんを食べる時間だってこと分かったんだろう。。。と、いつもそんな調子だったらしい。極め付けが、1年生の夏休みの課題で工作というのがあったけど、先生の話を聞いていなくて、夏休み明けに他の全員が工作を持ってきているのを見て愕然としたらしい。

私が、夏休みの課題のプリントとかお母さん見てなかったんですか?と聞いたら、私のお母さん、そういうの読まない人でって(笑)妖精さんのお母さまがまた素敵で、妖精さんよりもぽわーっとふわーっとしている人らしい。

で、妖精さんはその出来事で、自分が人の話を全然聞いてない事に気づいて、以後少し意識して人の話を聞くようにしたらしい。自分の個性に気付き、自発的に行動を変えることができて、今の妖精さんがあるのはぽわーっとしてるお母さんのおかげだね。妖精さんは今でもとても個性的だけれども、人の話はだれよりもしっかりと聞くし、誰をも包み込むやさしさもある。尊敬できる仕事もしている。

Sくんのお母さんがもっとぽわーっとしていたら。。。と思う。Sくんを他の子と比べて、他の子と一緒に何でもできるように調教しようと必死になればなるほど、望む結果は生れないと私は思う。なんとかそれを教えてあげたいけど、できなくて苦しい。

わり算の筆算

“4年生くらいからお勉強がわからなくなる子が増える”とよく聞く。1週間ほど前に、そういう内容の記事を読んだ。私はどんぐり式子育てをしているから、子どもは本物の学力をつけつつあると実感できていて、ハスちゃん(現在4年生)は大丈夫だろう、と信じていた。

「ハスちゃん、4年生になってお勉強難しくなった?」と聞いたら、「うん、本当に難しいの、昨日の算数のプリント、1つ以外全然わからなかった」とハスちゃん。

衝撃!!!!!!!!!!!!!!

どんなプリントだったか確認したら、わり算の筆算と言う。わり算の筆算習い始めた、楽しい、簡単って言ってた記憶があったけどなぜ?と聞いてみると、3桁と2桁の問題がチンプンカンプンらしい。

内心穏やかじゃない、ドキドキを必死で隠しながら、じゃあ糸山先生のこれだけ算数でママとやり方を確認しようということに。

1問目は、え?何でそうなるの?という状態。筆算の仕組み、基本がわかっていない感じ。


実は私、数学は得意でも好きでもない。けれども算数でつまづいた記憶はない。これだけ算数を見ながら、私が小学生の時にやっていたやり方を話しながらもう1問やってみる。

できた。ちゃんとできる。もう1問は私はお口チャックでハスちゃん1人でやってみる。できた。もう大丈夫。

「ママ、先生より教え方わかりやすい~上手だね、先生したらいいのに」とハスちゃんが言った。先生、一体どんな教え方をしたの。。。?算数が苦手だからこそ、上手に教えられるのだろうか。いろいろ疑問。

のっぽさん

私が幼い頃テレビに出ていた工作が上手なおじさん、”のっぽさん”。テレビの演出上、声を発しないキャラクターでしたが、最近のっぽさんのコラムを読んで感動した。

https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/010800021/091400016/?P=1

“ノッポさんが5歳で知った“大人のズルさ”というタイトルにギクっとする。そうなんだよなぁ、子供は賢い。だから大人から色々感じている。そして言葉にはしないけど、態度や生き方にそれが反映され行く。妙に大人びてなんだかすでに諦めることを知っている子どもが多いのは、大人のせいなんだと思う。

戦争中、アメリカを「鬼畜米英」と叫んでいた先生が、終戦後すぐ「民主主義とはいいものだな」と恥ずかしげもなく言うようになった経験をされた時、のっぽさんは大人は卑怯だと思ったと。現代、こんな極限状態はないけれども、似た状況はよくあるのでは?

のっぽさんは、 子どもを人間として大人よりも賢く感性も汚れていない、自分より上の存在だと考えて接していると。私も常々子どもとは対等であると思っているけれども、大人よりも神々しい存在なんだなぁ。忘れてしまいがち。

子どもには敬意を払って接する。しかし、無礼な振る舞いをするような子どもには容赦せず叱る。

「この野郎、ふざけるんじゃねえぞ」と徹底的にやりました。83歳の老人が小さい人を道の真ん中で罵倒している姿は、異様に見えたでしょう。

でも、それでいいんですよ。その小さい人にとって私は、正面からぶつかってきた初めての大人だったんでしょう。周囲の大人を「あんた」と小ばかにしていた小さい人が、翌日から私を「おじいちゃん」と呼んでニコニコと慕ってくるようになりましたから。


これこれ!子どもの扱い方を知らない大人がなんと多いことか。悲しいかな、とーっても丁寧で優しいハスちゃんの担任の先生、完全に激しい女の子になめられている。子どもには本音でぶつからないとダメ。敬意を払いながら。